エメリヤーエンコ・ヒョードルとリングス

エメリヤーエンコ・ヒョードルという名前を聞くと、私はいつもリングスの頃を思い出します。

今でこそ「60億分の1、史上最強のヘビー級」といった評価を受けることもあるヒョードルですが、最初からそういう存在だったわけではありません。

日本の格闘技ファンにとって、ヒョードルが大きく知られるようになった舞台のひとつがリングスでした。

当時の私は、正直そこまでヒョードルという選手を理解しておらず、いわゆる未知なる強豪の選手がやってくる程度の認識。

ロシアから来た大きな選手がいる。サンボという格闘技をやっているらしい。

そのくらいの認識だったと思います。

ところが試合を見ていると、サンボの寝技を披露するまでもなく、まさかの打撃でKO。

RIZIN熱視中さんでも「そもそも当時のロシア選手は寝技主体の選手が多く、その中で打撃で勝ってしまったので、そういった部分も衝撃でしたね。」と紹介されています。

さらにその後の試合を見るにつけ、だんだん「あれ、この人かなり強くない?」となってくる。

派手に感情を表に出すタイプではないのに、相手を倒してからの動きがとにかく速い。上になってからの打撃も重いし、組んでからのコントロールも上手い。

しかも体つきが、いわゆるボディビルダーのような巨大さではないんですよね。

そこがまた不思議でした。

「こんな感じの体格で、どうしてこんなに強いんだろう」と、画面を何度も見直した記憶があります。

リングスという団体そのものも、今振り返るとかなり特殊な場所でしたね。

前田日明さんが作り上げたリングスには、世界各地からさまざまな格闘家が集まっていました。

日本のプロレスを起点としながら、ロシアやヨーロッパなど海外の選手を積極的に招き入れていた。

今では世界中の選手がUFCなどの舞台で戦うことは珍しくありませんが、当時はまだ「海外の強豪が日本にやって来る」ということ自体に特別な感じがありました。

その中から現れたのがヒョードルです。

特に印象に残っているのが、2000年のリングス「KING OF KINGS 2」ですね。

ヒョードルが日本のリングで名前を広げていく過程を見ると、後のPRIDEでの圧倒的な強さを知っている今だからこそ、「ここから始まっていたんだ」と感じます。

もちろん、後から歴史を知っているからそう思えるだけで、当時は未来なんて分かりません。

それが面白いんですよね。

私も昔、格闘技雑誌を読みながら「この選手は絶対に将来大物になる」と勝手に予想して、見事に外したことがあります。

逆に、そこまで期待していなかった選手が後になって大ブレイクしたり。

「あのとき、ちゃんと見ておけばよかった」と思うこともあります。

だからヒョードルのリングス時代を振り返ると、単なる昔話ではなく、「スターが生まれる瞬間をどう見るか」という面白さがあるんです。

そしてヒョードルは、リングスを経てPRIDEへ。

そこから世界最強と呼ばれるまでになっていきました。

今になって思えば、リングスでヒョードルが見せていた強さは、後の完成形につながる大事な土台だったのでしょう。

サンボや柔道をベースにした投げ、組み、グラウンド。

そこへ強烈なパウンドが加わる。

相手を倒して終わりではなく、倒してからがまた怖い。

このスタイルは、現在のMMAを見慣れた目で見ても非常に完成度が高いと思います。

そして何より、リングスという舞台がヒョードルにとって日本との最初の大きな接点になったことは、格闘技史を考えるうえでも興味深いところです。

私はリングスの歴史を調べ直していると、いつの間にか昔の試合映像まで見始めてしまうことがあります。

「今日はこの試合だけ」と思って再生したはずなのに、気づけば別の大会まで見ている。

そして時計を見て、「もうこんな時間なの?」となるんですよね。

こういう脱線が格闘技好きには楽しかったりします。

エメリヤーエンコ・ヒョードルという偉大な選手を語るとき、PRIDE時代の無双ぶりが中心になるのは当然だと思います。

ただ、その前にリングスという場所があった。

そこで日本のファンに存在を知られ、強豪たちと戦い、少しずつ評価を高めていった。

そう考えると、リングスとヒョードルの関係は、単なる一時期の所属先という言葉では片づけられない気がします。

今の日本のMMAを見ていると、海外から強い選手が来ることも、日本人選手が海外へ挑戦することも当たり前になりました。

でも、その景色が当たり前ではなかった時代に、世界の強豪を日本へ連れてきた前田日明さんのリングス。

そして、そのリングに立った一人のロシア人ファイター。

後に世界最強と呼ばれる男の原点を辿っていくと、やっぱりエメリヤーエンコ・ヒョードルとリングスは切り離して考えられないんですよね。

あの頃の試合をもう一度見返してみると、もしかすると今まで気づかなかった「ヒョードルの始まり」が見えてくるかもしれません。

田村潔司×高阪剛(1998年6月、東京ベイNKホール)

今でこそMMAといえばOFGを付けた試合が定番です。しかしひと昔前、競技化への試行錯誤の時代は、いわゆるUWF系による模索がおこなわれてきました。
 
今のMMAと異なる点は、
 
・OFGをつけない
・原則パウンドはなし
・レガース、膝パット着用
・ロープエスケープ、ダウンは5回まで
 
といったところですね。
 
 
で、とくにリングスの場合は、KOK以前は寝技における打撃は全面的に禁止されていました。
 
そしてこういう場合どのような試合展開になるのかというと、とにかく絶え間なく動き続けるプロセスが展開されていきます。
 
いわゆる回転体と称されるムーブですね。
 
寝技での打撃がないので、パウンドを恐れることなく、さらにマウントを取られてもそれは決してピンチにならず、そのため、果敢にアタックを仕掛けることができます。しかもロープエスケープありですので、さらにリスクが減ります。
 
 
そしてその顕著な試合が、90年代後半の田村×高阪の試合ですね。Uやリングススタイルの真骨頂というか、技の応酬と両者のスキル、30分間最初から終わりまでの展開が最高です。
 

 
今となっては総合でパウンドがある、グローブを付けるのは当たり前となっていますが、その過程で上記のような素晴らしい試合があることを忘れてはならないと思います。

前田×ウィリー PART2

選手、そして会場の熱は、試合中はもちろんですが、試合前の入場でもわかります。
 
期待感による盛り上がりが凄いんですよね。
 
前田×ウィリーでも、ウィリーが入場してきたときや前田コールなどはそれはそれはすさまじいものがありました。
 
そして試合前、両者がリング上で向かい合った瞬間、試合前の熱はピークに達します。解説でも話してましたが、この二人が向かい合ってるのが信じられないというか、いやでもこれは現実なんだという壮大なギャップ!ガチでタマらないものがありましたね。
 
 
前田といえば長州との軋轢やUWFの解散など、決して順風満帆ではないプロセスがありましたが、でもやっぱりリアルヒーローというか、このウィリー戦のように周囲を引き込む存在感はやはり凄いものがあります。
 
 
そしていよいよゴングが鳴りました、、
 
 
PART3に続く、、

前田日明×ウィリー・ウィリアムス

この間、伝説の空手家、クマ殺しの異名を持つ、ウィリー・ウィリアムスさんの訃報を耳にしました。
 
世間的には、アントニオ猪木×ウィリー・ウィリアムスが有名ですので、ほとんどのサイトがこの試合を掲載していましたが、
 
自分的には圧倒的に前田日明×ウィリー・ウィリアムスなんですよね。
 
当時、1992年、前田日明率いるリングスは、ヴォルク・ハンにディック・フライ、クリス・ドールマンなど、世界各国から魅力あふれる選手たちが集合し、これまた魅力的なマッチメイクを展開していました。
 
そしてリングス92年、盛り上がりの真っ只中に大阪で組まれたのが、前田日明×ウィリー・ウィリアムスでした。
 
 
じつはこの試合の前に、セミファイナルでヴォルク・ハン×アンドレィ・コピィロフという至極のグラップリングマッチが行われ、会場は大爆発!!
 
この盛り上がりの流れを汲んで前田×ウィリーですので、会場はガチで出来上がってました。
 
 
 
PART2に続く、、